小石川後楽園見学会レポート

11月29日、千葉大学大学院 園芸学研究科の竹内智子准教授の企画により、日本滞在中のドーン・ウチヤマさんを、晩秋の小石川後楽園に案内していただきました。当日は、井上・大坪の二人のPSACEメンバーも参加し、竹内さんのご厚意により、たいへん有意義なひと時を過ごすことができました。

この件を、ブログでご紹介しようと考えていたのですが、あいにく〈ポートランドまちづくりスクール2021〉関係の準備や、今年からPSACEが後援団体となった世田谷落ち葉ひろいリレー2021の真っただ中だったこともあり、機を逸しました。

そこで、12月10日に発行された神保町周辺地域のミニコミ誌『本の街』2022年1月号 に大坪が寄稿した記事から主要部分を抜粋、また、写真とキャプションを追加することで、当日の模様をお伝えしたいと思います。ブログにしてはやや硬い文章で恐縮ですが、ご了承ください。

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本の街漂流記㉕ 小石川後楽園見学会(抜粋)

師走を目前に控えた某日、本の街界隈からほど近い小石川後楽園を訪ねた。

今回の小石川後楽園訪問は、千葉大学の竹内智子准教授が、ドーンさんのために見学会を企画してくださったことによるものだ。
竹内さんは、昨年まで、東京都の職員として、公園行政の最前線で活躍してきた。アカデミズムに身を置くようになってからも、現場主義は変わらず、精力的に各地のみどりを訪ね、かつまた実習をこなしておられる。

飯田橋駅で降車し地上に出て歩くこと数分、定時にサービスセンター前に到着した時には、すでに他の参加者は全員スタンバイしていた。 
眺めのよい涵徳亭の和室に、間もなく東京都公園協会の菊池部長と、小石川後楽園サービスセンター長の西山氏も合流し、自己紹介の後で古地図などを用いた説明を受けると、いやが上にも期待が盛り上がる。10時半、総勢9名での見学会がスタートした。

涵徳亭で、古地図や古い写真資料を用いた説明を受けました。
右から西山礼美(小石川後楽園サービスセンター長)、井上明紀(PSACE事務局長)、竹内智子(千葉大学准教授)、ドーン・ウチヤマ、菊池正芳(東京都公園協会事業推進担当部長)、三島由樹(フォルク代表取締役)、大坪義明(PSACE運営委員)(敬称略)
他に千葉大学の学生2名が参加しました。

スタート地点は本来「後楽園」に入るための正式な門(唐門)とは反対側にあたり、琵琶湖を模した大泉水が、いきなり視界に飛び込んでくる。意外と大きな起伏は、崖線地形を生かした自然のもの。
その中に、大堰川(大井川)やら、清水寺の舞台やらが、次々と現れてくる様は、歩いていてなかなか楽しい。

小石川後楽園マップ (C)公益財団法人東京都公園協会
渡月橋から大堰川の眺め 紅葉は角度によってはもっとずっと美しく見えます
大堰川べりの徳川光圀遺愛の巨大な名石 菊池部長によれば、明治期に陸軍工廠となった際、庭内の巨石はその多くが失われてしまったのだそうです。

およそ「見立て」の遊び心は、「極小化」(盆栽)「最短化」(俳句)への情熱と並び、我々日本人の伝統的美意識を陶冶してきた重要な要素である。これに省略・間(ま)などへの嗜好、不均斉を尊ぶ精神などを加えれば、日本美なるもののあらましは、大概、説明したことになるであろう。

その片鱗は、随所に見られ、園路の石組みの奔放さなど、さながら現代美術の如しだ。
日本庭園のよさは、石と水面の多様な表情にある。園内の水の風景は、江戸の人々の貴重な飲料水であった神田上水から取水され、再び上水に還流する仕組みに拠っている。まさに江戸のグリーンインフラである。それは、見事な生態系を作り上げ、生物多様性の宝庫となり、時を経てなお「習俗の純化」(ルソー第一論文)にも寄与し続けている、否いまこそその本領を発揮しているのだと考えたい。

ドーンさん、竹内さんをはじめ、この日の参加者はすべて有意義な時間を共にしたことを喜び合った。1月、浜離宮と芝離宮の二庭園での第二ラウンドが、今から待ち遠しい。

九八屋 江戸時代の酒亭 古い酒器を持ち込んで、一献傾けたくなりました。
庭内を一巡した神田上水の水は、大泉水からこの水門を通って、再び神田上水に還流していきます。
再び神田上水に合流する前に、いくつかの堰を通過する過程で、落ち葉などは集積され、そのまま流れていかない仕組みになっています。ポートランドの大規模なグリーンインフラにも同じ構造が見られることを、ドーンさんが教えてくれました。
乏しい資料をもとに再現された「唐門」は、今回の東京オリンピックのレガシーとなりました。
庭内にある中国様式の構築物や、唐門に描かれた異国の、あるいは想像上の動物の装飾などは、竹内准教授によれば、「権力者の力を誇示するためのもの」とのことです。すなわち、異国の文化や珍しい文物への造詣は、「武」のみならず「文」における優位性をアピールする恰好の手段となり得たということでしょう。

本文と同時掲載のコラム 「先憂後楽」


1629年(寛永6年)、水戸初代藩主・徳川頼房が現在地に建設を始めた上屋敷と庭園は、二代藩主の光圀が完成させています。「後楽園」の園名は、光圀が信頼を寄せていた儒学者・朱舜水の助言により、宋の学者・范文正の「岳陽楼記」の中の一節、「士はまさに天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむ」から採られました。

〈およそ仁者たる者、人々よりも先に天下国家のことを心配し、人々が楽しんだ後で自身も楽しむべきだ〉…政治を行う者の心得として、まさに至言と言えるでしょう。

復元されたメインゲートの唐門は、竹内さんによれば、世間との「結界」であり、そこから先が後楽園である、ということ。木曽路を経て琵琶湖のほとりに達し、やがて京の都に至って、再び元に戻るミニ日本ツァーの回遊式庭園は、光圀ら歴代藩主にとって、多忙な藩政のかたわら、至福の一時を与えてくれる地上の楽園だったことでしょう。しからば、敢えて誤訳を承知で、後楽園をメタパラディサスと呼んでみたい気がします。「超越した」「高次の」の意味で用いられる接頭辞metaは、古代ギリシャ語では元々「後で」の意、よって本物の楽園paradisusを追放された人間が地上に創り上げた桃源郷、の意味で…。

唐門の正面の〈後楽園〉扁額 門と共に、モノクロ写真を頼りに復元されました。

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レポーター 
大坪義明(世田谷ポートランド都市文化交流協会・運営委員)

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